子供の時から「真面目でいい子」と評価され、その通りに生きてきて大人になったのだが、どうも社会に馴染めておらず公私関係なく人間関係に苦労している。
あるいは、仕事や恋愛の場で劣等感や焦燥感に苛まれている…今風に言えば「生きづらさ」を感じている人が、どうして生きづらさを感じてるのかについて、個人的な考察と見解を述べていく。
いい子にしていたのではなくただ主体性がなく誰かの言うとおりに生きてきただけに過ぎない
まず自分で自分を「まじめでいい子」だと認識している人に目立つのが、それは真面目でもなんでもなく、ただ誰の意見に流されて育って来ただけに過ぎない。つまり、主体性が欠如した人生を歩んで来ただけなので、生きづらさを抱えているというケースだ。
とくに、学生時代はそれほど生きづらさを感じなかったが、社会人になり自由な時間とお金を持つようになってから生きづらさを自覚し始める人は、このケースが多いと思われる。
この手の人は、わかりやすく言えば積極性がない、指示待ち人間、自分の意見がない、無気力、真面目そうに見えるが何を考えているのかが他人から理解しにくく不気味さすらも感じる…というような印象を持たれやすい。
主体性がない…つまり、その人らしい個性や考え、主義主張などの人間味に該当する部分が乏しいので、人間関係においては無害ではあるものの、とりわけ関わりたいと思えるような魅力やカリスマ性がないために、人間関係の中で浮きがちになったり、存在感のない存在になりやすいのだ。
「真面目」がデフォルトの人間関係では、真面目だけでは評価されない
いわゆる育ちがいい人同士で構成される人間関係の場合、真面目であることがそもそもデフォルトであるために、真面目ぐらいしか取り柄のない人は生きづらさを抱えてしまうことがある。
これは小学校ではクラスでトップの学力を誇っていた子が、進学校に進んでから周囲が全員賢くて当たり前のように勉強に打ち込む環境にショックを受けると同時に、自分の個性を見失い学校に通うのが億劫になるのと同じような現象といえよう。
もちろん、真面目であることは特段否定するわけではないが、こと真面目な人ばかりの集団においては、それは何か特別な個性として輝くものではなくなる。
かと言って、真面目な人がそもそも少数派のガラの悪い人間関係に、わざわざ入り込む勇気がある人は稀である。結局、真面目な人同士の関係にとりあえず収まりつつも、鬱屈とした気持ちを抱え続けてしまうことが目立つ。
※ちなみにだが、真面目のほかにも「優しい」「大人しい」でも同じことが起こる。
「真面目にしていれば必ず報われる」という幻想に強く縛られている
「真面目に生きていれば必ず将来いいことがある」というような言葉を、幼少の頃から言い聞かせられたきた人に多いのが、その言葉を信じるあまり「どうして自分は真面目に生きているのに報われないのだ」と不満や怒りを感じてしまうケースだ。
身も蓋もないことだが、「世の中真面目に生きてれば必ず報われる」というのは「世の中運や才能が全て」という言葉と同じくらい、極端な意見であり現実に即しているものではないと思う。
真面目に生きることと、それで報われることが、常に100%イコールの関係で結び付けられているものではない…という事を認められないことが、生きづらさの原因なのだ。
まぁ「真面目に生きていれば報われる」という類のストーリーは、真面目であることを取り柄と感じている人の心に優しい言葉だろうし、ついつい信じてしまいたくなるものだ。
しかし、心に優しいストーリーよりも心に厳しい現実を直視したほうが、最初は苦しむことになるのだが、結果として生きづらさが解消されることもあるものだ。良薬は口に苦いとはよく言ったものだ。
「真面目でいい子にしていたのに報われない世の中がおかしい」と考えを暴走させていく人たち
「真面目でいい子」であった事を取り柄として強く考えている人の中でも、とくに厄介なのが「真面目でいい子にしていたのに報われない世の中がおかしい」と、世を恨むような思考に陥いってしまう人だ。要するに、闇落ちしてしまう事である。
この手の人は、意地悪な言い方をすれば被害者意識が強く、傍から見て真面目でもいい子にも見えない。むしろ、自分を「真面目と思っているクズ」のように、ただの真面目よりもタチが悪い人のように映ってしまうために、周囲から育ちのいい人が離れてしまいがちになるのだ。
また、この手の人は陰謀論やトンデモ論にハマったり、昨今の新型ウイルスで話題になった正義中毒状態にもなりやすい性質がある。
真面目なのに不遇な目にあっているからこそ、わかりやすい「悪」が出てくるストーリー(デマでもいい)に飛びつきやすいのだ。