他人にあまり共感しない理由を語る

人間関係・コミュニケーション
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個人的な話で恐縮だが、私はあまり他人に共感することがないと感じているし、普段から「共感しました!」という言葉を口にすることも、文章で書き込むこともまずしていない。

もちろん、他人に興味や関心がまったく無い無機質な人間ではないし、良い交友関係をもつことは仕事でもプライベートでも大事だ…という考えを持っていると自覚している。

ただ、そうした中でも極力「共感」に基づかないというか、安易に「分かる~」というような態度をしないように努めている。どことなくだが厚かましく思えるような馴れ馴れ態度をしないよう、日頃から意識している…と表現したら、まぁ、読者の皆様にはなんとなくでもご理解ただけるかと思う。

今回はそんな他人にあまり共感しない理由について、個人的な見解を述べていこうと思う。

 

安易に「共感」を口にすることに抵抗がある

冒頭でも触れたが、私自身共感することそのものを「わかる~」というような、馴れ馴れしさを感じる行為だと捉えている節がある。

もちろん、共感にも色々種類があるし、馴れ馴れしくないタイプの共感があるのは理解しているが、どうも私にとっての共感とは、相手の気持ちに寄り添うというよりは「うんうん、わかるよ~」と相手にべっとりと近づく行為のように感じてしまうのだ。

また、共感を口にする人ほど、なんとなくだが相手の気持ちを理解するように見えて、実際は「共感できるネタ」が見つかるやいなや、そのネタを利用して隙あらば自分語りに持ち込み話題をかっさらおうとする態度が見られる傾向がある。

要するに、他人に共感できる優しい人というような「共感」という言葉で想像できるイメージの人物ではなく、他人を踏み台にして自分の満足感や承認欲求を満たそうとする欲深い人間のように見えてしまう。

だからこそ、自分もまた欲深い人間だと周囲の人に思われ顰蹙を買わないように、あえて共感的な態度を控えているのだと自分で自分を分析している。

 

安易な共感を求める行為自分の美学に反すると感じている

もちろん、人間関係における自己顕示欲や承認欲求そのものを否定しているわけではないし、そういう欲をもつことは至って自然なことだと思う。

しかし、その欲をうまく自分でコントロールできないことや、表面的にはいい人のフリを実体は個人的な満足を求める…という、せこい方法で満たそうとする行為そのものに対して、個人的に反発心を抱いているのだろうと考えている。

自分の承認欲求を満たしたいのであれば、その場所や状況を自分で用意するのが筋である。自分で話題を提供するなり、人を集めてなにかの会を主催する…そういう「その場の主人公=自分」という状況を作るのであれば問題はないし、筋は通っている。

一方で、他人の話題に「共感しました!」と乗り込むと同時に「自分が自分が」と飛び入り参加してその場の主導権を奪うような行為は、率直に申し上げると恥ずべき行為であり美しくない。そういう、一種の自分の中の美学のようなものが、他人に安易な共感をしない理由としてあるのではないかと感じている。

私自身、こうしてブログを書くぐらいに我が強いことは自覚しているし、同時にその我をうまくコントロールしなければいけないとも感じている。そういう心意気というか、心構えが安易に他人に共感しないことにつながっているのかもしれない。

 

普段から共感をとくに必要としていないために、共感という言葉を使っていない

そもそもだが、私自身はさほど他人から「共感したいorされたい」と感じることが無い。また、普段関わる人もそこまで共感を求めていない人が多いことも影響していると考えている。

もちろん共感しないからと言って簡単に崩壊するような危うい人間関係ではないし、お互いがお互いに自立しており、そこまで情緒的な繋がりを強く求めていない関係である。

共感のようなわかりやすい感情表現こそしないものの、だからといって仲が悪いというわけではないし、すきま風が吹いているような冷えた人間関係でもない。むしろ、外からはわかりにくいが、お互いに信用している関係を構築できている…と、私は考えている。

 

共感を強く求めている人に対して思うこと

最後に、私の個人的な意見になるが、他人から共感されたい、他人に共感したいと強く感じている人には、どうも「自分が無いのかなぁこの人?」と感じることがある。

意地悪な言い方になるが「いちいち共感を必要として『自分の意見=他人の意見』という構図を作らなければ、精神的にへなへなになってしまう性分なのだろうか?」と感じることもある。

自分は自分だし、他人は他人。いちいち自分の感情なり意見の答え合わせをして、誰かから共感を得られれば正解、得られなければ不正解である…と考えてしまっているようにすら見えてくる。SNSで求める「いいね」が、現実世界における「共感」なのだろうか。

 

もちろん、ただの私の考えすぎや余計なお世話の可能性は十分にあると思う。

しかし、自ら共感を求める&共感する行為そのものは、意識高い系の方々であれば一度は見聞きしたであろう「同調圧力」に自ら近づきにいってるように見える。

小難しい表現になるが、これもまた「自由からの逃走」の一種なのであろう。