「周囲から理解されなくて辛い」という類の悩みは、人間関係の悩みでも多いものだと思う。とくに、世間一般の生き方や常識的な振る舞い方に対してついていくことが難しい人にとっては、この手の悩みに悩まされることはよくあることだろう。
かくいう私も、
- 繊細な人の心に優しくない記事を30記事以上も書く。
- もと意識高い系なのに、意識高い系ネタを未練がましく擦り続けるような記事を書く。
- 笑点の林家三平がなぜ面白くないのかについてわざわざ大真面目な記事を書く。
と、酔狂の極みみたいなことをやっている以上、周囲から理解されにくいタイプの一人であることは明らかである…が、「他人から理解されなくてつらい」と感じることは無い。
その理由について今回は語っていこうと思う。
そもそも自分みたいな考え・感性の持ち主が増えた世の中を見たいとは思わない
まず第一に、私のような考え・感性の持ち主が増えた世の中を正直言って見たいとは思わない。
物事をひねくれた目線で捉えることにアホみたい情熱を注ぐような皮肉屋な人が増えてしまった世の中は、多くの人にとって決して心地の良いものとはならないことが容易に想像できる。
私のような酔狂な人が集まった闇鍋みたいな世の中は、例え金銭的・社会的に裕福であってもこの世の終わりみたいな陰湿で不快指数の高い世界になるであろう。
だからこそ、自分を理解してくれるような人が現れなくても気にならない…というか、なるべくそんな人が増えないような世の中こそが理想であり、多くの人にとって幸せである。
このように書くと一種の自己否定のように見えるが、別に自分で自分の存在を否定しているわけではない。私みたいな人がいてもいいと思うが、そういう人が世の中に存在していることと、理解できる人が増えたり同調者が現れることはまた別の話である…と私になりに考えている。
おそらく自分の気持ちを理解できる人が現実世界で出てきたら引いてしまう自信がある
この記事を読んでる方に対して失礼を承知で申し上げるが、もし仮に私の考えに対して理解や共感を示してくれる人がネットではなく現実世界で現れたとしたら、「えぇ…私の考え方がわかるんですか…」と困惑して若干引いてしまう自信がある。
あくまでもネット上で、非対面の関係だからよかったのに、わざわざ現実の距離感まで近くようになると、急に自分の考え方の毒々しさ、生々しさを自覚して変なざわめきを覚えてしまいそうになるのだ。
また、困惑する他にも「この人現実世界でうまくやっていけてるのだろうか…苦労していないかな…」と心配する気持ちや不安な感情が湧いてくることも容易に想像できる。
(自分で言うのも変な話だが)私のような皮肉屋みたいな生き方をするよりは、素直に物事を楽しんだり、ひねくれた考え方をしない方が人生は気楽で楽しいし、人望にも恵まれやすいと思う。
特別な事情が無い限りは酔狂の極みみたいな生き方は憧れだけにとどめておいて、周囲と馴染んで生きていく方が人生イージーモードだと素直に思う。
「理解できます、共感できます!」みたいなチヤホヤしてくる人がそもそもうざい
これは私が男性であることも影響していると思うが、「あなたのこと理解できますよ」とか「共感できますよ!」というような自分を持ち上げたりチヤホヤ甘やかしてくるかのような反応をする人がそもそも嫌いである。
年齢的にもいい年した大人なのに「共感されたいです」という気持ちに飢えている自分を想像するだけでムズムズするし正直に気持ち悪い。いつまでも学生時代のような友達関係を続けようとしている人のように見えて「いい年して学生気分で和気あいあいって年齢でもないよなぁ」と冷静な気持ちになる自分も想像出来てしまう。
ほかにも、そこまで周囲の人に世話をされたいとかチヤホヤされたいとかよりは、「いや、もう私はそこまで周囲にあれこれ面倒みてもらうような状況でも年齢でもないんで」と放っておいて欲しいという気持ちがあるのも事実だ。
ある程度自分の身の回りのことを自分でやって、自分で自分の尻を拭くことが当たり前の生活を続けていると、他人から一方的に好意や善意、共感や理解ばかりを受け取り与えられてばかりな状況に対して強い違和感というか居心地の悪さを感じるようになっている。
…というようなムズムズ・モヤモヤがあるからこそ、「他人から理解されなくてつらい」という思春期みたいな感情がどこかに行ってしまったのだろうと分析している。
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