この記事は「すぐ「マウントされた」と感じる人について思うことを語る」の続編である。
私の持論であるが、マウントを取られたと感じやすい人は、本当に周囲にマウントをとってくるような意地悪な人がいるというよりも、むしろ他人の些細な言動から「あっ、今マウントを取られた!」と感じてしまうような考え方の癖が身にある。その結果、人間関係で苦労しているケースが多いと思う。
今回はこのことについて個人的見解を語ろうと思う。
劣等感が強い自分に向き合うのを回避するために「マウントされた」と考える
マウント取られたと感じやすい人は、普段から劣等感を強く感じている。
ただし、ここでいう劣等感を強く持つ人は、誰からどう見ても貧しいだとか、容姿や頭脳に恵まれていないのが丸わかりだととか、メンタルが弱くて社会でやっていけない…というような、わかりやすい要素を持っている人ばかりではない。
むしろ傍から見れば恵まれている人であったり、裕福でも貧乏でもない普通に属するの人の方が、「ええそうですよ。自分はどこからどう見ても自分は劣等生ですよ」と言って開き直れないために、劣等感をこじらせやすいし、惨めな自分を出すに出せない状況に苦しみやすい。
その苦しみから逃れるために行うのが、無意識のうちに他人が皆、自分の劣等感を刺激するような人のように思ってしまう事。
つまり、他人は自分の心を傷つける加害者(あるいは加害者予備軍)と見なすと同時に、自分を善良で罪のない被害者だと思い込むことだ。
現実逃避したいがためにマウントされたと感じる
私からすれば、被害者だと思うことはことは一種の現実逃避である。
劣等感に悩まされるのなら、劣等感を感じないくらいに努力するとか、時間をかけて自分を磨くとかすればいいし、磨いているうちに劣等感とかどうでも良くなってくる…ということはちゃんと努力してきた人なら大なり小なり感じることはあると思う。
しかし、劣等感をこじらせている人は努力や自分磨きにかかるストレスに耐えられない。もとよりこじらせているためか「コツコツと」とか「時間をかけて」のような、長期の継続が必要な努力よりも、短期間でパッと改善できるような方法を探し求めてしまう。
その方法こそが、自分をマウンティングの被害者だと思うことなのだ。
「思う」だけで済むのだから、時間も労力もかからない。また、自分は被害者だからこそ自分を改めることも、向上する努力もいらない。
しかし、これは劣等感を克服するというものではなく、劣等感の源泉である自分の弱点や欠点を見ないようにするという、一首の気休めであり現実逃避でしかない。
マウントされたという事そのものが一種の「救い」に感じてしまうことの怖さ
マウントを取られたと感じている人に対して「劣等感を感じないぐらいに自分を磨くべきだ」とか「マウントされたというのは現実等ひであなたの思い込みです」といっても、決して救いの言葉にはならないであろうことは想像できるだろう。
マウントされたと感じて現実逃避に走ってしまう人が欲しているのは、厳しい現実を突きつけるような言葉ではなく、欺瞞でもいいからあくまでも救いを感じる言葉である。
こういう言葉の代表としてあるのが
- 「マウントしてくる人は見栄っ張りで周囲から嫌われている」
- 「マウントしてくる人は精神年齢が低くてしょうもない人」
- 「マウントをしてくる人は本当は劣等感まみれでみっともない人」
というような加害者側を貶す言葉。
そして
- 「マウントされた感じるあなたは何も悪くない」
- 「マウントをするような人からは逃げてもい」
というような被害者を擁護する言葉だ。
もちろん、これらの言葉が全て誤りであるというつもりはないし、その通りだと思うことはある。
しかし、もし仮に私がマウントされる側だとして、この言葉を自分に言い聞かせ続けるのは「毒」だと思う。
まるで未熟な自分を肯定し続ける作業を今後の人生でし続けるような虚しさがある。未熟な自分を肯定し続けた先にあるのは、憂鬱な日々が続く人生だろう。
もちろん、そういう境遇に共感してくれる人が出てくれば安心感こそ得られるかもしれないが、いくらその手の人と繋がってもあまり明るい未来が思い描けそうにない。負の感情と負の感情がかけ合わさって正の感情になることはなく、むしろ負の感情が足されてより濃く、深く、どうしようもないものになってしまいそうな気すらある。
そうなるぐらいなら多少の精神的な痛みは承知の上で、マウントをしてきた(と自分が思っているだけの)人と繋がったほうが、まだ未来は明るいと思うし充実していると思う。