新年そうそうアレだが、昨年、あるいは一昨年ほど前から流行った「HSP(繊細さん)」を自称する人に出くわしたことがある人なら「傷つきやすい人ってめんどくさい」と感じたことは一度ぐらいはあると思う。
今回はどうしてめんどくさいと思うのか、うざいと思うのかについて説明していこうと思う。
すぐにハラスメント、加害者認定しかねない大袈裟さ、物騒さがシンプルに怖い
傷つきやすい人は、自分が受けた些細な言動を針小棒大に捉える傾向がある。鈍感な人、あるいは繊細でも鈍感でもない平均的な人であればとくに気に止めないような些細な言動までも「自分を傷つける言動だ」と捉えてしまうのだ。
もちろん、その傷つきを自分一人で消化できればいいのだが、中には傷つきをハラスメントのような社会的に認められていて、且つ自分が影響力を持ち相手に対して強く出れる概念に結びつけて、他人を萎縮させるように動いてしまうことがある。
当たり前のことだが、今のご時世ハラスメントの加害者に認定されることを好む人はいないだろう。ましてやまっとうに生きていると自覚している人にとって、自分が何らかの加害者とみなされること、社会的に淘汰されることが脳裏にちらつくものだろう。
加えてハラスメント(ひいてはいじめも)を語るとき、えてして
- 加害者:絶対的な悪である。あらゆる発言や言動に疑いの目を向けられる存在である。
- 被害者:絶対的な善である。断じて発言や行動に疑いの目を向けるべき存在ではない。
という印象を持つ人は多い。
そんな中で、自分が加害者に認定されることはまさに社会的な淘汰そのものである。
だからこそ自分をすぐ加害者認定する人、あるいはしかねない人は敬遠される。平穏無事な日々を過ごしたい人にとって、自分に危害を加えてくる人は今のご時世乱暴狼藉を働くような荒くれ者ではなく、すぐ加害者認定したがる被害者意識が強く傷つき感度の高い人なのだ。
なお、余談だが基本的に「ハラスメントやいじめの被害者が事実を捻じ曲げていたり、嘘の被害を主張している」と思うこと自体あまりいい印象を持たれない。
どこかのセクシー環境担当大臣ではないがかわいそうな人はかわいそうだから保護や配慮をすべきであり、その人の人間性を疑うべきではない…という考えに疑問を持つ人の方が稀であろう。
扱いが難しいわりに感謝も尊敬もされず徒労感が募りやすい
もし仮に傷つきやすい人に運悪く関わりその人に配慮するように生活しても、その生活はどこかしっくりこないというか、なんか変というか、無駄に消耗するものになりやすい。
というのも、傷つきやすい人の中には自分が配慮されることを当たり前のように感じている人がいる。当たり前であるからこそ、自分が配慮されてもそのことに感動も感謝もしない。ましてや、配慮してくれる人に敬意を払うこともなく、ごく当たり前の事として受け取るのである。
こんな労力を費やしているのに、その見返りが無い生活はただただ徒労感が募るものである。しかし、そのことを口にしようものなら「傷ついた」と主張して自分を攻撃しかねない。
そういうめんどくささが予見できるからこそ、傷つきやすい人はめんどくさがられるのだ。
自分で勝手に妄想してに傷つくくせにその感情を自分で処理できない
傷つきやすい人の中には感受性が豊か…というよりは、あること無いことを妄想して勝手に傷つく。そしてその傷つきを自分一人で処理できず、周囲に撒き散らしてしまう人がいるのだ。
こういう人は直接関わっていなくても、勝手に不機嫌を撒き散らしてくる人なので、基本的に人間関係で歓迎されることはない。自分で自分の尻を拭けないからシンプルにめんどくさがられる人なのだ。
また、傷つきやすい人の中には、不思議なことに勝手に自分で妄想を膨らませた挙句、その妄想をあたかも事実であるかのように捉えてしまう…という、妄想と事実の区別がつかなくなっている人がいる。
そういう人とまともに関わるとこっちが頭がおかしくなるからこそ、基本的に拒否・拒絶の対象になるのだ。
実は自分が他人を萎縮させているということに気がついていない点がホラー
最後にだが、傷つきやすい人の中には、自分にばかり意識が向いているせいか、実は自分が他人を萎縮させているということに気がついていない…という不思議な人がいる。
散々自分は傷ついたと感じるが、その一方で他人を困らせていること、不快にさせていること、迷惑を欠けていることに関しては恐ろしく無頓着。繊細なのは自分のことだけで、他人に対してはひどく鈍感…という「あなたのどこが繊細なの?」と言いたくなるような人がいるのだ。
まぁ、もうここまで行くと、めんどくさいとかうざいとかよりも「ちょっと怖い人だな」と表現したほうがふさわしいかもしれない。
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