「些細なことで傷ついてしまうような人は優しい人。そんな人が他人を傷つけるような真似はしない」と普通なら考えるものだとは思うが、世の中には繊細で傷つきやすいはずなのに、平気で人を傷つけてしまう人がいるものである。
今回はそんな人について個人的な考察を述べていこうと思う。
そもそも容易に傷ついたと考えてしまうのは他人への不信感が強いことが影響している
まずはじめに、傷つきやすい人は実際に他人から明確な嫌がらせを受けているというような状況にあるとは限らない。
むしろ、些細なことでも針小棒大に見てしまう癖がある。つまり、普通の人であればとくに気にしないようなことですらも「傷つけられた」と感じてしまうナイーブな部分が強いのだ。
そしてこのナイーブさに加えて、そもそもの時点で他人に対する不信感や警戒感が強く、他人と良い関係を築くことができない。あるいは良い関係ができたとしても、その関係が嘘・まやかしのように思えて居心地が悪くなり、自分から関係を壊すような行動にでてしまう。
根本的に人間不信な部分があることが災いして「この人は自分に加害してくる人だから正当防衛として攻撃的な態度をとっても問題ない」と考え、実行に移ってしまうことがあるのだ。
まぁ、事情を知らない人からすれば「意味もなく攻撃的な態度を取ってこられたんですけど(困惑)」となるのだが当の本人からすれば、自分を傷つけてくる人、あるいは将来傷つけてくる人に対する牽制の意味合いとして、あえて角が立つような行動に走ってしまっているのだ。
余談だが人間不信が強い人は攻撃行動のほかにも人間関係リセット癖や逃げ癖を発動して自ら孤立を選ぶこともある。いずれにせよ良い関係ができたとしても、それを維持できない点では同じである。
容易に傷つくと感じるぐらいに情緒が不安定なので、攻撃的な態度を抑制する能力が働きにくい状態にある
普通の人なら気にしないようなことで容易に傷つくと感じてしまう人は、そもそも傷ついたという経験が人よりも多いために精神的に不安定な状態になりやすい。
そして、普通の精神状態の人ならまずしないであろうような攻撃的な行動を抑制できるとは言い難状態であるために、理性が働かずつい攻撃的な行動にでてしまうのだ。
ただし、そういう事情は普通に生きている人からは理解されないし、そもそも攻撃的な態度をとってこられた側からすれば「攻撃的な態度を取ってくる人のことなんて理解してやるもんか」と思われ無視や拒絶の対象になってしまいやすいという問題もある。
また仮に理解者が現れたとしても、そもそも情緒不安定であることが災いして自分が十分に理解されていることに気がつかず「自分は周囲の人から理解されていなくて生きづらい」と嘆くこともあるのだ。
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自分から他人を威圧、萎縮させるような態度により集団での居場所を確保してしまうケースについて
いわゆるメンヘラ気味な人…それも、周囲化に理解のある人(彼くんとか)がいる状態に慣れている人は、攻撃的な態度をとることで人心掌握できたことが成功体験になり、理解のある人以外の関係でも同様に攻撃的な態度をとってしまことがある。
この時に女性であったり、何らかの社会的ハンデや「か弱くてなんだかかわいそうだし多少のことは大目に見てあげなきゃダメだよね」と周囲の同情を誘いやすい要素を多く持っている場合は、しょっぱなで攻撃的な態度をとっても、それを諌める人が出てこず結果として攻撃的な態度を許容してしまう関係が構築されてしまうことが発生する。
とくに男性の場合は社会的立場の弱い人(男女両方)に対して甲斐性を見せることで自分の地位を向上させたり、大人の男性として求められる姿として評価される材料になる。
そのため、冷静に考えればあって間もない人に対して感情コントロールができない人に反省を促す存在がなかなか出てこず、自分は傷つきやすいのに他人傷つけることは簡単にしてしまう…というような自分に甘く他人に厳しい人が誕生してしまうのだ。
同族嫌悪として傷つきやす要素を持っている人にだけ厳しくなるケースについて
最後に同族嫌悪として傷つきやすい人が「あっ、この人自分と同じで傷つきやすい性格の人だろうな」と思ったときに、まるで自分が見たくない醜い部分を見せつけられている気がした結果、厳しくあたってしまうことがあることも触れておきたい。
なお、同族嫌悪であるために同族とは思えない人、同族の雰囲気や匂いがしない人に対しては穏やかな態度でいるため、傍目からみればそこまで他人を傷つけるような人とは思えないのがこのタイプの特徴である。
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