誰かの助けになりたいとか、人の役に立ちたいという立派な考えそのものを否定するものではないが、この手の考えを持つ人の中には、どうもエゴな部分や自己満足を追い求める気持ちが強く、結果として人間関係の中で苦労してしまう人が割と多いと感じる。
今回は、そんな人たちに見られる失敗について、個人的な見解を語ろうと思う。
「すぐ」人の役に立ちたいとばかり考えて、ロクに勉強をしない
人の役に立ちたいという気持ちが先行するあまりに、人の役に立つための勉強をしようとしない。
例を上げるとすれば、災害ボランティアに参加するのに、災害現場で自分の身の安全を守るための最低限の知識や、避難している方々の環境を悪化させないために必要な知識の詰め込みをおろそかにして、とにかく衝動的に動こうとする…というものである。
もちろん、こういう人は行動力があるとか、正義感や使命感が強いとして評価されることもあるが、冷静に見れば準備不足のまま人の役に立とうとするようなトラブルメーカーな人とも言えるのだ。
一見するとわかりにくいが、確かに人の役に立っていることを軽視してしまう
「人の役に立つ」という事を、どうも直接人を助けることのみだと考えてしまうこともまたよく見られる。
この手の人はどうも体を動かさずに人を助けることを軽く見ており、職場の業務効率化のために仕事のやり方そのものを見直して改善を図ろうとする…のように、直接誰かに感謝されることはあまりないが、結果として多くの人を助けて役に立っている行動については「それは人の役に立っているといえない」として、評価をしない傾向がある。
また、この手の人はボランティア活動や社会貢献活動のような、利潤追求の要素が薄い奉仕活動を高く評価する一方で、普通に利潤追求の為に働いて誰かの役に立つことや、あまり奉仕の要素がない家事や手伝いなどの行動を評価しない傾向もある。
どうも誰かに自慢しても問題ないような立派な活動のみを「人の役に立つこと」として見ている傾向が強い。
言い方は悪いが、「困っている人を助ける」というような、単純且つわかりやすい「人の役に立つこと」のみを重視しているため、どうも鼻持ちならない印象が拭えないので、人間関係の中で苦労するのだろうと見ている。
役に立たなければ無意味・無価値という考え(≒優生思想)を持ちやすい
誰かの役に立とうとする優れた人間性を持っているように見える反面、人の役にたたなければ無意味・無価値というような、危うさすらも感じさせる考えを持っていることがある。穏やかではない言葉で表現すれば、優生思想に近い考えを持っているとも表現できよう。
この思想の怖いところは、役に立たない存在は必要ないとして他人を切り捨ててしまうことをごく当然の事のように考えてしまったり、逆に自分自身が役立たずになってしまったときに、強い精神的なショックを受けてしまうことだ。
また、人の役に立っており立派であると強く自覚している人ほど、うっすらとでも自分が優生思想に近い考え方を持っていることを認めたがらないことも目立つ。
もし認めようものなら、道徳的・倫理的に優れているというアイデンティティが崩れてしまうからこそ、頑なに自分の考えの危うさや極端さを認めたがらないのだろうと推察している。
最後に
最後に、たいへんに余計なお世話かもしれないが、社会人になっても学生時代のように通知表で評価される感覚を抜け出せない…そんなお利口さんではあるが、自分のポリシーというか、評価軸というか、主体性や当事者意識に当たるものが希薄な人ほど、社会貢献に対して強い意欲を見せることがあるように感じる。
この手の人は自分が無い事の虚しさやもどかしさに耐え切れず、とにかく乾いた感情を潤すかの如く、社会が求める理想敵な人になろうとする。
しかし、当事者意識がないことが影響してか、社会貢献に対して強い意欲を見せる反面、自分を犠牲にしてしまうようなバランス感覚に問題がある行動に出てしまいがちであり、決して持続可能なものとはいい難いのが特徴的である。
また、本当は自分が救われたい、虚しさから開放されたい、という個人的な気持ちを抑圧しているためか、メサイアコンプレックスのように助ける対象をかえって不幸にさせてしまうような行動にも出てしまうことも目立つ。
まぁ、このようなひねくれたことを書くのは、私自身が「人の役に立つことよりも、まずは自分の生活をしっかり成り立たせることから始めよ」という考えを重視していることが影響していると思う。
こんな性分だからから、どうも人のためにあれこれ尽くす人には共感しにくいのだが、そんな私でも仕事を通して人の役に立っているという自覚は一応ある。他人にあまり共感を覚えず、決して優しさがあるとは言えない人でも、人の役に立ててしまうほどに世の中は広いのだと思って頂ければ、ひねくれもの冥利につきるとでも言えようか。