「優しい人」と言われるのが正直嫌だと感じる理由

人間関係・コミュニケーション
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私自身、今までの人生の中で「優しい男性or人ですね」と言われることが多々あった。

恋愛・友達・仕事関係など、あらゆる場面や人間関係で他者から「優しい」と言われるのは、もちろん人として素晴らしいことだとは思う。

もちろん、優しいと評価している人の好意を無碍にするつもりはないが、正直に申し上げると、私は優しいと言われることに不快感やコンプレックスを感じることが多かった。

今回はその理由などについて語ろうと思う。

 

恋愛・友達対象としての「優しい人」は「つまらない人」の言い換えである

恋愛・友達関係における「優しい人」という評価は、もちろん親しみやすさや癒されキャラという好意的な印象を表す言葉であろう。

しかし、一方では「優しい人」はつまらない人、面白みに欠ける人、目立たない地味な人、関わっても刺激が少ない人という否定的な印象を表す言葉であると私は考えている。

とくに、若いうちだと「優しい人=若者らしい溌剌さがない、覇気がない」という印象で言われているフシがあり、暗に否定されていると感じることがあった。

プライベートで関わる人間としては無難で無害。しかし、無難という枠に収まりすぎてしまい、例えば親友だとか誰かの一番の友達にはなれない…そんな誰かにとって特別な存在にはなれない人間だからこそ私は「優しい人」どまりになっている自分が嫌いであった。

 

仕事関係での優しい人は利益にならない人という意味合いがある

仕事における「優しい人」もまた、純粋に考えれば信用できる人だとか、仕事を安心して任せられる人という、ポジティブな印章を持つ言葉と解釈するのが自然だろう。

しかし、私が思うに仕事における「優しい人」という評価は、利益を生んでくれない存在であること。つまり、利益のために非情にならざるを得ない場面で相手に情けをかけてしまったり、逆にこっちから譲歩して自分で自分の利益を手放してしまう…そんな、利益にならないことをしてしまうダメなビジネスマンという意味合いで使われていると考えている。

もちろん、目先の利益を手に入れることばかりがビジネスではないし、自己犠牲を厭わないメンタリティが評価される職場・職種があるのは理解している。

しかし、誰かに雇われて営利目的のまっとうな企業で働いている以上、私情をはさんで利益を失う行動が非難されるのはもっともなことである。

私自身が今となっては黒歴史だが、意識高い系と呼ばれる人たちに囲まれて、それこそベンチャー特有の勢いや競争を重要視する職場の中で働いてきたからこそ、職場の人から言われる「君は優しいよね」という評価に対して、上で書かれているような否定的な印象があったのだろうと過去を振り返って推察している。

 

「優しいぐらいしか取り柄がない人」だと思われていることで自己嫌悪する

もちろん、否定的な意味合いばかりで「優しい人」だと評価してくれる人ばかりではないことは私も理解していた。

しかし、優しい人だと何度も言われる度に、まるで自分にとっての魅力は優しいぐらいしかない。つまり、他人から見て私は優しいぐらいしか取り柄がない人だと思われていると感じて、自分で自分が嫌になることがあった。

優しくするのは誰でも簡単にできるし、社会で生きていくためには欠かせないスキルだし、そのスキルを評価されていることに誇りを持つことは問題ない。

しかし、一方で当たり前のことを当たり前にするぐらいしか能がない、独創性とか個性とか、優しいよりもまず「私と言えば○○だよね」という言葉が出てくるような、他者と比較して特筆すべきものを持てていないことに、どこかコンプレックスに感じていたのだと過去を振りかえって感じている。

時代背景のせいもあるが、私が育ってきた平成の時代はとにかく個性を伸ばすとか、その子の強みを活かすという教育方針が押し出されていた影響もあってか、優しさというあらゆる個性の中でも地味な個性…言い方は悪いが悪い意味で使われる「真面目な人」と同等の個性である「優しい人」が私の個性であることに、どこか納得できないものを感じていたのだと思う。

 

優しいという印象がついているだけに舐められやすくて損をする

また、優しい人という印象がついていたせいか、仕事やプライベート関係なく何かと他人から舐められた態度を取られることが多かった。

私自身、いじめられたことこそあったが暴力や暴言などの過度な乱暴沙汰とはあまり縁がない生活を送ってきたために、自分に対して舐めた態度を取ってくる人への対応する術がなく、仕方なく相手のいいなりになってしまい損をすることが多かった。

そんな状況を見て言われる「優しい人だね」という評価は、言い換えれば私は他人の横柄な態度に反抗せず、自ら損な役回りになってくれる都合のいい人という意味合いが強かったし、そんな不名誉な印象で語られる「優しい人」という評価に怒りを感じたのも事実だ。

こういった優しい印象で損をした、割りを食ってきた経験があったせいか、今ではある程度の優しさは残しつつも、横柄な相手に対して言うことをはっきりというor最初から相手にしない、という生き方を少しずつ取り入れることができるようになった。

優しいだけでは自分を守れないし、時間や労力、経済的な利益を奪われてしまう。優しいけれど心を鬼にする経験は大事だと感じた…という〆で、この記事はお開きにさせて頂く。

 

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