怒らないで見捨てる人間関係が効率的な理由を解説する

人間関係・コミュニケーション
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優しい人ほど、人間関係の中で問題を起こしている人に対して怒らない。むしろ、簡単に見捨ててしまう…という、なんだか優しいように見えて冷たい人は、現代社会では多いと思うし、むしろそれが賢い人間関係の付き合い方だと考えている人は多いと私は感じている。

もっと嫌な言い方をすれば、めんどくさい人は怒らず見捨てる生き方は、実にコスパの良い生き方であると、私は表現したいぐらいだ。

今回は、怒らずに見捨てることがなぜ効率的であるかについて個人的な見解を述べようと思う。

(※この記事では「怒る」だけでなく「叱る」という表現も出てくるが、両方とも同じ意味合いだと考えて読み進めて頂ければ幸いである。)

 

めんどくさい人に説教しても、よりめんどくさいことになる

まず、めんどくさい人に対して説教をしても、必ずしも相手が反省し、改善が見込めるとは限らないのが実情である。

最近はなんでもかんでもハラスメントだの差別、偏見、弱者への配慮不足だなんだと反論する。SNSで裏垢に投稿して炎上&実害を被る。

メンタルが弱すぎて怒られたが最後、心の病になってしまい、怒った人が悪者扱いされてしまう…など、怒った結果起こりうるめんどくさい事態の数々を嫌でも意識せざるを得ない世の中である。

とくに誹謗中傷と批判・指摘の区別ができず、もっともな言葉ですらも誹謗中傷だとか自分への攻撃だと捉えてしまい、反省や改善が全く見られない人も意外と多いものだ。

もちろん、この現象に関しては若い人のみではない。中高年でもまっとうな指摘に対して逆ギレする人も多い。

 

育ちのよい人だと「叱れば言うことを聞く」「説教すればわかってくれる」と当たり前のように信じているかもしれない。

しかし、世の中には批判、指摘、説教がまるで効かず、病的に無気力で、怠惰で、努力ができないどうしようもない人もいる。

あるいは怒ってくる人に反撃を試みようとする頓珍漢な人もいる。そんな非常にめんどくさい人に怒るぐらいなら、見捨てたほう疲労が少なく効率的なのだ。

 

仕事の場合、怒っても怒らなくても給料が変わらないのなら、見捨てたほうが効率が良い…となる

現金な話だが、仕事の場合はもし怒っても怒らなくても給料が変わらない場合は、怒らないほうが効率的だと考えてしまうものである。

もちろん新人教育を担当する場合なら、しっかり指導できなければ自分の評価に響くが、とくに教育を任されているわけでもなく、評価に反映されないのであれば、わざわざ怒る必要性がある人に説教をするのは非合理的である。

また「いい年した大人なんだから、自分のことぐらい自分でどうにかしてよね。社会人なんだから自助自立の精神を持とうよね」と思ってしまった結果、見捨ててしまうことも珍しくない。

怒る方も決して楽しいからとか、好きだからでやっているわけではないし、怒ることそのものに一種の気恥ずかしさやアホらしさを感じるぐらいなら、見捨てたほうが疲れなくて済むと考えるのだ。

また、下手に怒って職場内での空気やモチベーションを下げるようなことがあってはめんどくさいし、後述するように各種ハラスメント認定されて自分の仕事(≒収入)が危うくならないためにも、めんどくさい人は優しく見捨てるのがコスパのよい働き方なのである。

 

怒れば簡単にハラスメント認定される世の中なので、リスクを考えられる人ほど面倒な人は無視をする

以前書いた記事「叱ってくれる人がいない状況が招く問題について語る」でも触れたが、前職の社長が言ってた「叱ったら負け」という言葉は、まさに言い得て妙だと感じている。

職場で叱ればハラスメント、学校で叱れば体罰や行き過ぎた教育指導と言われて、叱ったほうが悪者に仕立て上げられてしまいやすい。

おまけに、被害者を訴えた側が「自分は被害者だから反省しなくてもいい。悪いのは怒ってきた人のほうだ!」と自分に都合よく考えてもそれを許してしまう人も増えている。とくにネット上でファンに援護・擁護、ヨシヨシされるのを求めている人を見ると、そのことを強く実感する。

その結果、リスクをよく考えられる人ほど、叱らないことで起きうるリスクよりも、叱った結果起きうるリスクのほうが大きいと判断してしまい、トラブルメーカーな人とはそっと距離を置く。

距離を置けば、もしトラブルメーカーな人が問題を起こしたとしても、自分にかかる火の粉を減らせるし、運がよけれノーダメージで済む可能性もある。また、怒る役割を誰かに任せて、自分が悪者にならずに済めばラッキーだし、疲れずに済むので効率的だ。

 

人間関係を自由に選べる世の中だからこそ、わざわざ怒らなくても済む関係へ簡単に移動できる

今や公私関係なく、ネットの発展によって昔よりも一つのコミュニティにこだわる必要性がなくなった。

つまり、めんどくさい人間関係があれば転職すればいい。ネット上で面倒な人がいればブロック&ミュニートすればいい。

ネットが無い時代のように、一つの人間関係に長く留まる必要性が薄れた分、めんどうな人間関係は即座に切り捨てて別の関係に移りやすくなったのが現代の人間関係の大きな特徴である。

もちろん、これはいい事ばかりではなく、上記のようにめんどくさい人は誰からも叱ってもらえず、自分で反省できない限りはずっとめんどくさい人のままになってしまう。どこの誰かが言ったか忘れたが、まさに「馬鹿に付ける薬がなくなってしまった」と表現できよう。

おそらく、今後の日本でもめんどくさい人の周りには、まともに叱ってくれる人は減り、いつまでも問題児のまま取り残されてしまう現象は無くならないだろう。

多くの人がめんどくさい人よりも、めんどくさくない人のほうが付き合って労力を無駄遣いせずに済む。つまり、コスパの良さを感じるのだから、めんどくさい人が自ずと敬遠されるのも無理はないだろう。

見えてる地雷をわざわざ踏み抜く生き方は、あまりにもコスパが悪いから仕方がないし、踏み抜いてまで得たいリターンを求めるぐらいなら、もっとコスパのよい関係を求めるだろう。