他人の愚痴を聞くのが好きな理由を説明しようと思う

人間関係・コミュニケーション
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ネット上では「愚痴を吐く人は関わるべきではない」とか「愚痴は人生に何ら価値を生み出さない」というような強気の意見が日々共感され、拡散される傾向がある。

とくに、意識高い系の人たちは「愚痴=絶対的な悪」と決めつけて、愚痴を言う人や愚痴る行為そのものをまるで親の敵であるかのように憎悪していることが目立つ。

しかし、私は少し変わっているのか、愚痴を非常に悪いものだと捉える考え方に対してはあまり共感できない。むしろ、他人の愚痴を見聞きするのが結構好きだと感じているフシがある。

今回は、そんなひねくれ者の私が何故愚痴を聞くのが好きであるかについて、個人的な見解を述べようと思う。

 

愚痴を聞くのが好きな理由

その人の考え方や価値観、趣味、嗜好などの内面をよく知れる

私が思うに、愚痴の内容にはその人の人となりがよく現れていると感じる。たとえば、

  • 何に対して怒りや不愉快な気持ちになるのか。
  • どういった物事に理不尽さを感じているのか。
  • どういうタイプの人や行動が苦手なのか。

など、ぱっと見はネガティブな話題に見えても、その人らしさがよく現れるのが愚痴であると私は考えている。

愚痴の内容一つ見ても、この人は「どういう感性を持っているのか?」と考えれば、相手を深く知ろうという前向きな気持ちが持てる。

こうなるのは、私自身がクリエイティブ職で且つ娯楽産業に近い職種であるためか、愚痴の中から感じ取れるその人の趣味や嗜好、考え方の癖などが巡り巡って自分の仕事に反映できたり、ふとした時の些細な話題のネタになる。誰かの愚痴を聞くことは、いわば他人どういった娯楽を求めているのかを知るリサーチなのだ。

もちろん、愚痴の内容を仕事に活かす以上は、その内容を第三者に漏らすような真似はしないように心がけている。

後述するように、愚痴る人の中には「この人なら愚痴っても受け入れてもらえる」という好意から愚痴りに来ている人もいる。そのため、せっかくの信頼関係を壊さないよう秘密は守るよう努めるのが重要である。

 

「愚痴っても大丈夫な人」と見られていることが嬉しい

(ただストレス解消をして自己満足したいという理由で愚痴る人はさておき)私は誰かに愚痴られても「この人は私なら愚痴のようなネガティブな話題を振っても大丈夫な人」と認識されたと感じて、少し嬉しさを感じる事がある。

上でも触れたように「この人になら愚痴っても受け入れてもらえる」だけの親しい間柄になれた…と感じるからこそ、喜んで愚痴を聞いている側面があるのだ。

個人主義が浸透した現代ではこういう考えはあまり流行らないとは思うが、人間誰だって愚痴の一つや二つぐらいぼやきたくなるときはある。そういった場面で、安心して愚痴を受け入れてくれるだけの人柄を持っている人として必要とされることは、いわば誰かに承認されることと同じである。

つまり、愚痴聞き役としての自分が承認されて満たされる感覚を味わえるからこそ、愚痴聞き役も悪くないと感じているのだ。おまけに愚痴って元気になれたのなら、愚痴聞き役はむしろ誰かの役に立っているともいえよう。

昨今は個人主義が浸透したせいで、困ったときはお互い様という精神が薄れてしまった。そんな世の中だからこそ、愚痴聞き役の存在は思いのほか重宝されているのだと考えている。

 

普段から人とあまり会話することがないので愚痴は貴重なコミュニケーションだと感じている

私自身が在宅業で、すべてメールやチャットで済んでしまう働き方をしている。しかも、独身で下手すれば1日中誰と喋ることがない日が続くことも珍しくない。(※コロナ騒動よりも前からこの生活様式は変わらない)

そんな人間と関わらない生活をしているせいか、たとえ愚痴のような会話であっても、私にとっては誰かと喋れる場と感じて、めんどくささよりもありがたさの方が上回るのだ。

とくに、誰かと喋らない日が続くと自然と自分が世間から孤立して、まるで隠遁生活をしているかのような錯覚に襲われてしまうことがある。世辞に疎くなりすぎず、俗世にしっかりと適合するためにも、愚痴でもいいから誰かと会話をすることは、ちゃんとこの世で生きていくためには重要なことだと私は考えている。

 

ただし、愚痴なら誰でもいいわけではない

一応補足だが、愚痴を聞くのは好きであっても、誰の愚痴でもいいから聞けるほど私は人間ができているわけではない。

一口に愚痴といっても、自分と似たような考え方の人や違う業界の裏話なりを知れるような込み入った愚痴ができる人であれば、喜んで聞こうと思える。また、品のある人や育ちのいい人の愚痴話も聞いていて退屈せず、むしろ引き込まれるものがあるので喜んで聞く気になれる。

ただし、あまりにも下世話すぎて聞くに耐えない愚痴をする人や、自分の努力不足を嘆いて他責で物を語る人の愚痴は、耳の毒にほかならない。

 

最後に、誰かに愚痴を聞いてもらえる人は、一見するとめんどくさい話を展開しているように見えて、実は聞く人の興味や知的好奇心をくすぐるような雑学と知見に富んでいるものが多いように思う。逆に、嫌がられる愚痴をする人には、それらがちっともないように思える。

もし誰かに愚痴を聞いて欲しいときは、ただの自己満足になってはいけない。聞く人を飽きさせないような話術や内容が大事だと感じだとつくづく感じる次第だ。(まぁ、これは愚痴に限らず、あらゆる場面のコミュニケーションでも言える事だと思うが)