いわゆる娯楽の世界・表現の世界であるクリエイエティブ職をしている身であるか、ユーモアセンスに溢れる人と関わることがあるが、そういう人を見ていて思うのはユーモアセンスは生まれつきの才能のみで決まるものではないということだ。
つまり、後天的に学習したり、人間関係や人生経験を重ねた結果として、言葉を巧みに使って人々を楽しませる話術(=ユーモア)が身に付いたのだと私は考えている。
今回はそんなユーモアセンスについて思うことを書いていこうと思う。
ユーモアセンスは経験の結果として身につくもの
冒頭でも述べたが、ユーモアセンスは勉強や人生経験を重ねたことで身につくものであると私は考えている。
ただし、ここでいう勉強や人生経験とは何も学校の勉強や職場での人間関係と言ったかしこまったものにが限定しているものではない。
たとえばだが
- 自分の趣味の世界、あるいは趣味人同士の会話を聞くこと。
- 自分とかなり年が離れた人との実際に会話をする経験。
- 小説やアニメのようにフィクションの世界の登場人物の言い回しを見聞きした経験。
- 落語や漫才、お笑いなど、主に言葉を使って人々を楽しませる人の芸に触れた経験。
- TVCMなど短い時間で見ている人にメッセージを伝える必要性がある作品を見た経験。
など、あらゆるものに触れて「あ!この言い回し、理由はわかないけどなんか面白いな」とか「このフレーズ、なんとなく心に響くな」と感じた経験の多さが、ユーモアセンスを磨く要因になっていると考えている。
なお、こう書くと「結局面白いと感じる素質や才能がない人には、ユーモアセンスは身につかないんだな」と考えてしまう人もいると思う。
私個人的にそういう人に言いたいのは「どこかユーモアに対して正解があると考えていませんか?」ということだ。
私の持論だが、ユーモアは人の数だけあるので正解を決めることそのものが難しいし、そもそも正解どうこう持ち出すのは何か違う気がしてならない。
正解とかどうとか関係なく、自分が何が面白いか、何が心に響いたかを振り返ることで、自分なりのユーモアセンスを磨くことができる(=個性が強まる)と考えている。
個人的にはユーモアセンスを身につけたければ「話す」「書く」ことが大事
目の前にある自分の心の琴線に触れる言葉や言葉選びをただ受け続けるだけでは、ユーモアセンスは身につきにくい。
重要なのは、その言葉を使って自分なりに話をしてみたり、文章を作ってみること。つまり意識高い系風に言えばアウトプットである。
自分の琴線に響くワードチョイスを一方的に受け取る側ではなく、表現する立場に回ってみる。ただし、その過程で自分の文章力や国語力の低さにぶち当たって気持ちが沈むことがあるかもしれない。
しかし、そこで自分の能力の低さを自覚して、たとえば国語力向上のために普段の勉強にまじめに取り組んだり、人から添削や指導を受けて客観的な意見をもらうという経験を重ねるのが重要になる。
とくに、学生や新社会人のように若くて指導を受けやすい立場にある人は、客観的な意見をもらう経験を大事にしたほうがいいし、若いうちの方が情報に対する感度・感性が鋭い(というか情報を受け取るための体力が豊富である)ので、よく勉強するのが重要だ。
「この人にならこの言葉選びが受けそう」という考えがあれば生まれつき関係なくユーモアセンスが身につく
もう一つユーモアセンスを身につけるのに重要なのが、実際に会話をする目の前の人の趣味・嗜好・興味に合わせて、その人が受けそうな言葉選びをすることである
これもまた、勉強や経験を重ねるうちに「あ、このタイプの人ならこの話題をして、そのなかにこの言葉選びを混ぜて…」とか「たぶんこの人はこの言葉選びはピンと来ないだろうから別ので試してみるか」というように、感覚で理解でき実践できるようになる。
少し上で触れた「自分とかなり年が離れた人との実際に会話をする経験。」が生きてくるのがここなのだ。
最後に
余談だが、ユーモアセンスを毒舌の上手さと勘違いする人は多い。
確かに鋭くキレのある毒舌は人によっては癖になる。激辛料理愛好家みたいに一定のファンがいるユーモアの一種であろう。
しかし、そもそも毒舌であるがゆえにただの乱暴な言葉になりやすい。また「ユーモアセンスがあるけど、それはそれとしてこの人のことは嫌いだ」と思われるリスクがある点については注意しておくべきだ。
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