個人的な経験で恐縮だがクリエイティブ職として働いていると、いわゆる感受性が豊かで繊細、そのせいか些細なことでひどく傷ついたり動揺したり、果てには自分の将来への強い絶望や自己否定や自己嫌悪に陥ってしまう‥というタイプの人に出会うことがしばしばある。
普通に考えればいわゆる気難しい人だとか、芸術家気質だとか、職人肌な人という印象を持つことだろうが、ひねくれている私はどうもこれは一種のナルシストであり自己愛の強いであると感じてしまう。
今回はこの自己否定が強いナルシストというテーマについて個人的な見解をのべていこうと思う。
いわゆる典型的なナルシストに見えないのに自己愛の強さがにじみ出ている
一般的にナルシストと言えば、尊大で傲慢、虚勢を張る、注目を浴びたいがためにビッグマウスになるだとか自慢癖がやめられず自惚れている…というように、他人から自分をよく見られるために自信有り気な態度を取るという印象が強いだろう。
しかし、その一方で周囲からよく見られたいと思う承認欲求の強さは言い換えればそれだけありのままの自分に満足していないだとか、現実の自分は大したことないという気持ちの裏返しであると解釈可能である。
この「よく見られたい」という他人に向けて見せている部分がなく、シンプルに動揺したり自己否定したり、絶望したり…という部分だけを見せているのが冒頭で述べた自己否定が強いナルシストがナルシストたる理由である。
他人に見せるための自分を作っているか作っていないかの違いだけで、どちらも根本の部分では自分に対して興味・関心が非常に強いという点では、自己愛の強さがにじみ出ているのだ。
自分への強い絶望、自己否定、自己嫌悪をすることから見えること
自己否定の強いナルシストは、いわゆる自信満々でうぬぼれが強く、何を言われても自分を貫こうとするキラキラをした典型的なナルシストのイメージとは違うし、何も考えずに見れば自己愛が強い人だと思うこともないだろう。
しかし、四六時中自分のこと頭がいっぱいになっている時点で、自己愛が強いと表現するのがふさわしい。どれだけ自分に興味持っているんだろうか。四六時中自分のことしか見えていない、考えていない、自分に関わる嫌な妄想しかしていない…と、思う。
また、自己愛が強く自分のことしか見えていないからこそ、普通の人がそこまで自分に強い興味を持っていないとか「まぁ、自分はこんなもんだろ」と自分と適度に付き合っていることについて想像したり、考えようとすることもない。
適度に自分という人間との付き合い方を知しっているからこそ、理想の自分と現実との自分のギャップを感じて強い絶望を感じることもないし、理想の自分に程遠いことで深刻な自己嫌悪に苦しむこともないのだ。
と言っても、本人が「自分は形こそ違うが一種のナルシストである」と自覚をもつことは難しい。こありのままの自分を受け入れられないからこそ「自分はナルシストである」と言われても否定するのだ。
むしろ自己否定できているということから、「自分はナルシストみたいな嫌なやつではなく善良な人間だ」と勘違いしてしまうことがある。これもまたある極端からある極端に走る…つまり、極端に自分を肯定or否定するという点では、自己愛が強くナルシストそのものであるという解釈ができる。
自己肯定感という言葉が話題になってから自己否定が強いナルシストが増えたという仮説
最後に余談だが、自己肯定感という言葉が話題になって以降、どうもこの手の自己否定が強いナルシストが増えたように思う。
本来であれば自己肯定感というのは「良くも悪くもない自分を受け入れること」みたいニュアンスだと思っていたが、どうも最近は「自分の価値を高めていきましょう」みたいな自己啓発やビジネス色の強いニュアンスになってきた。
自己肯定感の高い人はキラキラしている、社会で成功している、日々充実している…というようなイメージ(おそらく広告宣伝によるものだろう)が定着し、そのイメージに近づけるよう自己肯定感を上げる努力すればするほど、ありのままの自分の惨めさやつまらなさを痛感する。
いつしか「肯定できるような価値ある自分にならなければいけないし、肯定できるような自分になれな自分に価値はない」という極端な考えに陥り、自己否定の強いナルシストになってしまう人が実は増えているのではないかと思う。
最後に
なお、基本的に私は自己肯定感という言葉が結構便利だから使っているだけで、「自己肯定感下がってませんか?」とか「自己肯定感を上げましょう!」みたいなノリは心底嫌いである。
また個人的には自己肯定感に囚われている時点で、どれだけ自分のことしか見ていないのか。そこまで世間の人は自己肯定感に興味ないし、精神が安定している人は自己肯定感という概念がなくても平気な人であると思うんだが…
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