多くの人をひきつけるような魅力、才能、カリスマ性を持った人間になりたい願望(と承認欲求)が強い人の中には、自分を磨き鍛える方向に走るのではなく、むしろ自分は何らかの被害者であるとか立場の弱い人間であると主張することにより、何者かになろうとする人が少なからず存在している。
私はこうした自分を下げる方向で何者かになろうとする行為は、正直に申し上げるとあまり感心しない。
余計なお世話だとは思うが、自分で自分を弱らせる方向に仕向けるのは、かえって生きづらさを増し、世の中への不満を嘆くような面白くない人生を歩む危険性があると考えている。
今回は、この何者かになりたい病と被害者・弱者ぶる人について、個人的な見解を述べていく。
頑張らない方向で承認された満足感のせいでまっとうに努力するのが億劫になってしまう
誤解を恐れずに言うが、自分を高める方向で何者かになろうとすることよりも、自分を低くする方向で何者かになろうとする方が、労力が少なくコスパも良い。
勉強ができる人間になるために机に向かうこともしなくいいし、強い肉体を手にするべく体を鍛えることもしなくていい。
つまり、無駄な努力をせず…というか、ほぼ努力なしで自分の中にある被害者意識を膨らませたり、ネット上の信ぴょう性が怪しい各種マイノリティ診断(例:HSPとか)をポチポチ受けるだけで、簡単に自分を低くすることができてしまうのだ。
もちろん、その過程で精神的な傷つき、疎外感、劣等感などの代償が生じるが、その代償は周囲から承認されるのに役立つ。
つまり、周囲から「この人は辛い思いをしてきたかわいそうな人だから、いたわって親切にしてあげなきゃ」という同情を惹くのに役立つ。要するに、かまってちゃん行為をする際に、とても役立つのだ。
こうして、自分を低くすることで承認され満足感を得る…という一連の狂った成功体験を味わい続けると、次第にまっとうに自分を高める方向で努力することが面倒になってきてしまう。
むしろ努力して自分を高める方へと動き出すとなれば、今まで手にしてきた承認してくれる人間関係を手放し孤独に苦しむかもしれない…という不安が頭をよぎるようになり、ますますまっとうに努力するのを回避するようになるのだ。
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弱者ぶる人同士の間でも競争が起きて、より自分を悲劇の主人公に仕立て上げなければいけなくなる
実際に弱者ぶったり被害者ぶる人達の集団に関わったことがある人ならわかると思うが、弱者ぶることで成功体験を得てきた人達が集まると、お互いがお互いにどれだけ悲惨な経験をしてきたかで言い争うことがある。
実に醜く不毛な言い争いだとは思うが、これは周囲からの承認をより多く勝ち取るために、一種の競争をしているのだと私は考えている。
競争に負けてしまえば得られる承認の量は減るので、なんとしてでもそれは避けたい…と、その場にいる人の多くが考えている。そのため、お互いがお互いに自分はどれだけ悲劇の主人公であるかを主張して、集団内での影響力を獲得するために、不毛な競争に挑んでいるのだ。
ネット上では、隙あらば自分語りをしてタイムラインやコメント欄でどれだけ自分が不遇な過去を歩んできたかを語って、いいねや閲覧数を稼ごうとする光景を(意識的に探してみれば案外)見かけるものである。
こういう状況を観察していると「どういう世界でも競争は起きるものなのだなぁ…」と、しみじみ感じる。同時に「どうせ競争するのであれば、自分を高めて強くする方向で競争した方が前向きで、そしてきっと人性が楽しくなるだろうなぁ…」と、しみじみ感じる次第である。
年を取ってからも被害者ぶる癖が抜けないと悲惨である
最後に、若いうちに被害者アピールをすることは「若くて苦労したんだなぁ…」という類の反応を示されることがある。若さというバイアスがかかっているために、ただ苦労した人よりも魅力的に見えてきて、承認が得られやすいのだ。
しかし、歳を重ね若いという言い難い年齢に差し掛かってもなお、被害者アピールをする癖が抜けていないと悲惨である。
当然ながら若さが失われた以上、バイアスはかからない。そもそも年齢を重ねている以上、誰しも人生の中で相応の苦労を重ねているために、苦労そのものに対する希少性や貴重さが薄れてしまう。
また、苦労の内容が「小学生の頃にいじめられた」とか「親の教育のせいで今とても辛い」というような、どこか幼稚な内容であると「えっ!、この人いい年してまだそんな昔のことでクヨクヨしているんだ(ドン引き)」という類の反応が返ってくるのも、無理はない。
もちろん、幼い頃の苦い経験そのものを否定するわけではないが、いつまでたってもその話を持ち出すような精神構造や、実年齢と精神年齢の乖離具合が、結果として人間関係でうまくいかず苦労する要因になっている可能性については考えてみる価値はあるだろう。