努力家が嫌われる現象から見る、努力したい人が知っておくべきこと

自己啓発・意識高い系
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これは以前書いた「頑張ってる人を嫌いになる現象がなぜ起きるのかについて解説する」の続編である。

一般論として努力するのは良いことだが、その一方で努力する行為そのものには、他人を萎縮させてしまったり環境によっては悪目立ちをしてしまい損をすることにもなってしまう。

今回はそんな自分の将来の目標などに向けて努力する人が(世間一般に向けて堂々と主張すべきではいが…)知っておくべきことについて述べていこうと思う。

 

 

努力することそのものが一種の威圧、プレッシャーを与える行為になりうる

冒頭でもさらっと触れたが、努力する行為には他人を萎縮させてしまうような一種の攻撃的な側面がある。穏やかではない言葉になるが、努力の「力」は暴力の「力」と同じ。つまり、攻撃性の一種なのである。

とくに、努力からすることから逃げた人や社会の中での競争は嫌うが競争の結果得られる利益に執着がある人からすれば、愚直に努力する人は自分の劣等感やどうしようもなさを嫌でも自覚させるような目障りな存在である。

まぁ、そういう勝手に劣等感を抱く人に配慮する必要性は無いとは思うのだが、この手の人の中には努力している人を嘲笑したり、努力している人に干渉し邪魔をする。そのほかにも、所属している集団に対して「努力しても無駄」というような白けた文化・空気を作って努力しない自分にとって居心地のよい空間を作ろうとする事がある。

いわば、努力している人が悪者でだらけている人が善人にあるかのような価値観を作ってしまう事があるのだ。

その価値観に染まった人や集団に毒されないよう安心して努力できる環境を選ぶことが重要なのだ。

 

 

安心して努力したければ努力や向上心を否定しない環境を選択するのが賢明

社会の中で生きる以上、どこの誰かに努力する姿を見られることはほぼ避けられない。そんな時に自分の努力を応援こそしなくてもいいが、少なくとも邪魔する人が出てこないように、安心して努力できる環境に入り込む事が重要になる。

わかりやすい例を上げるなら、勉強なら授業が厳しいことで有名な塾に通う、あるいは進学に力を入れている学校へ進学する。

仕事なら、厳しい社風として有名な企業・職場を選ぶというように、努力を嫌がる人が少なく、むしろ努力や向上心を肯定的に見ている人が自然と集まってくるような環境に身を置くという具合だ。

ただ、こういうことを書くと「競争が激しい場所だからこそ足の引っ張り合いが起きるのでは?」という感想を持つ人もいるとは思う。

ただ、一応でも進学校にいた私の一個人の経験からくる意見としては、「他人の足を引っ張るよりも自分が努力して結果を出したほうが効率がいい。むしろちゃんと努力できる人は、他人の足を引っ張るような姑息な真似をすることに抵抗を覚えるから足を引っ張られる可能性は低い。要するに人としてちゃんとしている人が努力を肯定的に見ていない集団と比較して多いので、そういうみみっちいことをする人の心配は無用」である。

 

 

世間一般が求めるor受け入れやすい努力家のイメージを演じることも世渡りのひとつ

努力をしたいと考えている人の中には、努力する根底の理由が世間一般から見てあまり好ましく無いものの場合もあるだろう。

例えば、自分を見下してきた人に対する対抗意識であったり、自分が金銭的・社会的に裕福になることであったり、シンプルにバカと一緒に働くことや勉強することが嫌であったり…など、私欲や一種の恨みからくるような邪な理由で努力すること自体は、それを表沙汰にしない限りは私は良いと思う。

しかし、そういったドロドロとした感情は一度表沙汰にしてしまうと、冒頭で触れたように悪目立ちしてしまい自分の不利益になってしまいかねない。

また、世間一般には「努力家=清廉潔白、私欲が無い」というイメージを持たれる…というか求められる事が度々ある。

甲子園のように多くの人の注目を浴び、且つ興業的な側面が強い分野で努力をしたり、年齢的に若く期待をかけられやすい立場にいる場合は、世間一般が求めるような清く正しい努力家像を演じることも世渡りのひとつだろう。

努力家な人であればもちろん自分を応援してくれる人や理解者を増やしたほうが、努力するモチベーションにもなるし承認欲求も満たされる。

一方で、努力家ではあるが私欲が強い人、不必要に敵を作るような発言が目立つ人は応援する人も理解者も増えにくい。また何かにつまづいた時に「ざまぁ」と手のひら返しをされる可能性も高まる。これは避けたいことだろう。

こういう事態に陥らないためにも、ある程度世間一般が求める努力家のイメージやドラマ、筋書きに自分を合わせていくことも世渡りのひとつである。

たとえ性根の部分がひねくれていようとも、世間一般はひねくれた努力家を求めていない。せめて世間一般の前では綺麗な努力家でいられるよう努力することが大事なのだ。