私がかつて精神的に未熟というか、メンヘラというか、こじらせている人(意識高い系も含む)と関わっている時に、なんかの病気かパーソナリティ障害かと思えるくらいに、努力ができない人に合うことがあった。
それも努力できない自分を卑下するように見せかけて、どことなくまっとうに生きている人を見下すかのような言動をとっており、鼻につくことこの上なかったのを強く覚えている。
今回はそんな私の経験も踏まえて、病的に努力ができない人の特徴について個人的な見解を述べてみる。
些細な健康不安を盾にして努力しないための言い訳作りに専念したがる
誤解を恐れずに言えば、病的に努力できない人は、自身の健康に関する不安を盾にして、努力しなくていい理由探しに終始していることが多かった。(なお、この記事では最近流行りの新型ウイルスは除外する)
たとえば
- メンタルが病むから働きたくないor勉強したくない。
- 自分はコミュ障で陰キャラだから、人付き合いはしたくない。
- 疲れてへとへとになりたくないから、面倒なことはしたくない。
- 天気が悪いから、季節の変わり目だから、急に暑くor寒くなったから…
という具合である。
自分の体調・健康を少しでも損ねるようなことがあれば「健康が脅かされるから」と取れる言葉を枕詞にして、努力から逃げようとすることが目立った。
まるで自分の健康を人質のように扱い、面倒事を回避するような特徴が見られた。また、健康を意識しすぎて精神的に摩耗したのか、逆に不健康になっているケースもあった。健康オタクが健康にこだわりすぎて、逆にストレスを抱えて不健康になるのと同じような状況ともいえよう。
先天的なハンデ(自称含む)を主張して努力から逃げる
ちなみに、中には先天的なハンデ(自称含む)のような「自分の努力によって替え用のないもの」を盾に面倒事から逃げる人は、どこか絶望的な状況を望んでいるような節があった。
「ハンデがあるから先天的に不可能」という一般的に見て不幸な状況は、努力したくない人からすれば、いわば無駄な努力をしなくていい強固な言い訳になりうる。「だって先天的に○○だから努力できません」と言われれば、それ以上他者が踏み込んだことを言いづらくなる。
そういう意味では、自分の努力による改善が見込めない状況の方が、現状打破の為にあれこれ頭を捻り、汗をかなくてもいいので、コスパの良い生き方のように思えるからこそ、絶望的な状況を望んでいるのだろうと推察している。そういう意味では、先天的な気質且つ医学用語ではなく心理学用語の「HSP」は、健康を盾に努力しない言い訳を探している人からすれば、まさに好都合な概念とも呼べよう。
なお、ここでいう健康不安の中には、詐病や仮病と思われるものも含まれている。そして、そのことが後述するように、病的に努力できない人と関わる上での厄介さを際立たせているのだ。
健康不安を盾にした言い訳の問題点
先天的なものや健康不安を盾にした言い訳は、その性質上非常にデリケートなものであり、まっとうな指摘や疑問がしにくいものである。
たとえば「メンタルを病みたくないから…」と言う人に対して「じゃあ、メンタルを強くしなよ」とか「甘えたこと言ってたら何もできないよ」と言う行為そのものが、相手のメンタルを削る行為(=不健康にさせる)になる。結果、まともな指摘をした方が加害者になり、指摘をされた側が被害者になるという立場関係が生まれ、その後の関係がギクシャクしやすくなるのだ。
また、ほかにも冷静な指摘や素朴な疑問を、すぐに人格批判や差別などの別の問題に繋げて話題をうやむやにしようとすることも多い。要するに話題を逸らしがしやすいのだ。
ちなみにだが、この場合は指摘や疑問をしてきた人の発言力を弱くすることに重きを置き、相対的に努力できない自分の方が、その場の空気を支配できる立場になろうと動くことが多い。指摘を受け入れずでもなく、疑問に答えるのでもなく、ただただ相手の発言力を奪って、なんとなく努力から逃げてる側が正しいかのように場の空気を塗り替えるのだ。
ここまでこじらせてしまうと、もうまともな話し合いの成立は見込めない。次第にまっとうな指摘や疑問をしてくる人はいなくなってしまうのも無理はない。
結果、病的に努力できない人にとっては忌々しい正論を放ってくる人がいないので、快適な空間を手にすることはできたといえよう。
しかし、傍から見ればますます怠け癖、逃げ癖、屁理屈をこねる癖が悪化していることは明白である。一言で言えば、余計にこじらせた人間になってしまい、まっとうに努力して生きている人を呪い恨むかのような人間性が芽生えてしまうことがあるのだ。
こういう人たちを見てきたからこそ、努力する上では努力を見せてもいい人、集団、場所というものを意識することが重要だと考えている。
努力からの逃避癖を持つ人からすれば、たとえ努力している本人に悪意はなくとも、努力する光景そのものが非常に不快なもののように思えてしまう。
「努力している人は、ただ存在しているだけで不快で目障り」…そう思ってしまう人がいるからこそ、能ある鷹は爪を隠すという言葉が生まれたのかもしれない。
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