「関わってはいけない人」系の動画を投稿しているyoutuberについて思う事

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ビジネス(虚業含む)、自己啓発、お悩み相談、メンタル・心理系に関する動画を投稿しているyoutuberに多いのが「関わってはいけない人○○選」という類のタイトルの動画である。

そのどれもが、アイキャッチで投稿者自らがクロスチョップ…ではなくて胸の前でバツマークをして、視聴者に対して強い不安を訴えかけるかのようなデザインになっているのが特徴的だ。

今回は、この手の動画投稿しているyoutuberについて思う個人的な見解を述べていく。

 

「関わってはいけない人」系の動画を出している人に関わってはいけないと思うのは私だけであろうか?

私が強く思うのは、「関わってはいけない人」系の動画の投稿者こそが、関わってはいけないタイプの人間なのではないか…ということだ。

もちろん、関わってはいけないと思われる人の特徴については、ある程度理解できるものがあるし、自分の未来のことを考えるとそれとなくフェードアウトするのが妥当ではある。動画の内容を見る限りだと、とくに仕事やプライベートの充実を図る上では、距離を置くのが無難な人物の特徴を紹介していることは確認できた。

しかし、問題は内容ではなく話し方や動画の演出にある。なんとなくで申し訳ないが、説明の仕方がどこかカルト宗教の教祖や胡散臭い自己啓発セミナー屋のそれと同じである。

視聴者の心を悪い意味で強く揺さぶるような言葉を向けて、一時的に不安や恐怖に陥らせたところに間髪を容れず助言という名の扇動をする。

まるで、どこかの独裁者の芝居じみた演説のような話し方をしている時点で、私は「関わってはいけない」と強く感じてならなかった。

 

「関わってはいけない人」系の動画を出す目的についての考察

私の想像、妄想、憶測そして経験から来る推測になるのだが、「関わってはいけない人」系の動画を出す目的については以下が考えられる。

 

  • 共通の敵を作り出すことで、動画投稿者と視聴者との強い一体感を作り出す。ブログやSNSと違いyoutubeのように顔も見え、声も聞こえ、表情も見えるのがyoutubeの強みだ。そんなyoutubeの性質を利用して、投稿者に対して強い共感・親近感を抱かせる動画ジャンルの一つが「関わってはいけない人」系の動画なのである。
  • 自分の関わるべき人間関係を取捨選択することができないほどに、自分の人生に主体性の無い人をファンとして取り込む狙いがある。この手の人は、自分の人生を生きるのではなく、誰かや何かに決められた人生を生きる方が「楽だ」と感じる傾向が強い。つまり他人への依存心が強いのでファン(信者候補)としては最適な人物である。
  • 他のビジネス系youtuberへのおすすめ欄に出るための便乗目的の動画。

 

余談だが、私はこの手の「関わってはいけない人」系の動画に登場する特徴を持つ人物に関わった経験は(昔は時々あったが)今は極端に少ない。

普段関わる人にそこまでガラの悪い人がいることは無いので、現時点では動画に対して強い共感や親近感を覚えないというのが率直な感想である。

普段から関わる人の層が極めて悪い人…つまり、育ちの悪い人や性格・人格に難のある人が多い劣悪な環境にいて、そこからの逃避願望が強い人達をメインターゲットに設定した上で、この手の動画は作られているのではないかと推測している。

そう考えれば、逆に普段から人に恵まれている人や、「人間関係を切るor切らない」という悩みとは無縁の人は、この手の動画のメインターゲットですらないのだろう。

 

最後に

私自身この手の話し方をするセミナーについては、若い頃に何度か参加したことがある。

当時は東日本大震災が起きた後で、将来・社会への不安が強いという時代背景もあったためか、強い言葉で人を先導…もとい扇動するカリスマ性を持つ人の存在が求められていたとも言える。嫌な言い方をすれば、時代が宗教的指導者を求めていたとも言える。

現在は新型ウイルスの流行や格差の固定化、そしてスマホの普及とyoutubeの認知度向上によって、直接セミナー会場に足を運ばなくとも、実質的にセミナーの内容を無料で見聞きできる時代になっている。

人生に迷いを感じている人からすれば、現代は検索すればまさに人生の道しるべとなりうる人物を簡単に見つけられるいい時代だろう。そんな時代の影響もあってか、いわゆるビジネス系youtuberにとっては、今はかき入れ時とも言えよう。

そして、こんな記事を書いている私自身も、見方を変えればビジネス系youtuberの真似事をしていると言われれば否定できない。要するに自己矛盾していると言えるのだが、自己矛盾している事に気がついているだけ、まだ自分を俯瞰的且つきゃ感的に見れているという証なのだろうかと分析している。