苦手なことは克服しない主義で失敗する人について語る

自己啓発・意識高い系
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よく自己啓発本やビジネス系youtuber、インフルエンサーが発信している情報に敏感な人であれば「自分の苦手としている事、できないことを克服するのは時間の無駄!得意なことやできるにエネルギーを注ぐのが賢い」という類の意見を一度は耳にしたことがあると思う。

もちろん、苦手な仕事を他人に依頼することは、仕事でもプライベートでも役立つことが多いし、なんでも自分ひとりで抱え込んでキャパオーバーになって潰れるのを回避するためには必須のスキルといえよう。

しかし、この苦手なことは克服しない主義は決して万能なものでない…というのが私の持論である。今回はこのことについて個人的な見解を述べていく。

 

「苦手なことはやらない」という開き直りのせいで失敗する人

私が意識高い系の人(学生)と関わっていた時のことである。その人は自己啓発書に毒されたのか、とにかく苦手なことを他人に任せる。そして、そんな自分を有能なリーダーであると自負していた。

その人の印象は(私個人的な意見としては)面倒事を嫌がるだけのものぐさな人間であり、どこか開き直っているように見えてならなかった。要するに「鼻持ちならない嫌なやつ」という印象であった。

苦手なことはやらなくていいというもっともらしいい言い訳を見つけて、自分で自分の能力の低さを自己正当化している。一応雑務を押し付けている人に感謝する素振りは見せるが、どうもその感謝ですらも自己アピールのための行為にすぎず、他人の善意にあぐらをかいている。実際の能力と自己評価が大きく乖離しているタイプの典型的な意識高い系の学生だった。

 

もちろん、苦手なことを人に任せる行為そのものは問題ない。しかし、実際に任せるに際して一種の慎ましさというか「すまないねえ…」という類の申し訳のなさなりを見せていれば、まだいい印象になっていたと思う。

まぁ、こんなことを言うと「老害」とか「昭和の価値観だ」と反論されて、価値観のアップデートを迫られそうではある。

ただ、私個人の意見としては、人に助けてもらって当たり前、頼みごとは引き受けてもらって当たり前、むしろ苦手なことをやってもらえる使える人材はとことん使って成果を出すのが当たり前という考えに傾倒してしまうと、いつしか他人への想像力がなくなって自己中心的な人間になってしまうのではないかと懸念している。

 

苦手なことを人に頼むときに感じる罪悪感を欠如させてしまうのが「苦手なことは克服しない主義」弱点

意識高い系の人は自分の利益や合理性を求めるあまり、どこか人を人と思わないとでも感じるような危うい考え方に染まってしまう傾向がある。

もちろん、最初の方は「申し訳ないなぁ」とか「これぐらい自分でやるべきだよなぁ」という罪悪感を覚えることはあるのだが、長いこと意識高い系の人間関係なりネットやSNSの情報に触れていると、次第に罪悪感が薄れてしまう。

もちろん過度な罪悪感は自分ひとりで抱え込んでキャパオーバーになるなど、リスクがあるものだ。しかし、罪悪感が薄れすぎてしまうと他人に対する思いやりや配慮のなさで印象を落としたり、開き直りとも取れる態度が染み付いてしまった結果、他人に悪印象を植え付けてしまう要員にもなりうる。

一般的に「罪悪感は持つべき」という意見よりも「罪悪感は持たなくてもいい」という意見のほうが、ゆるく優しい感じがするので受け入れられやすい。

しかし、何事もバランスが大事である。適度な罪悪感(というよりは良心の呵責をしっかり感じる能力)を持つことは、人間関係で不必要に敵を作らないためには大事だと個人的には考えている。

 

 

苦手を克服する行為そのものを嘲笑する文化があることについて思うこと

個人的な経験と主観の話で恐縮だが、意識高い系の方々とか関わっていた時に、どことなくだが合理的でない努力を嘲笑する文化や思想のようなものを、ふんわりとだが感じることがあった。

自分にあったことを見つけて努力することこそ正しい。逆に苦手を克服することや、無駄な努力をすることは純粋に時間と労力の無駄であり、賢い人間のやることではない。自分の才能や素質を自己分析により発見して、自分にあった最適な努力をすることこそこれからの時代には必要だ!…みたいな意見は、一見するともっともらしく見えることだろう。

しかし、ひねくれた見方をすれば、それは苦手なことを克服しようとすることがまるで無駄だと決め付けるような暴論とも解釈できる。

もちろん、苦手なことを克服するのは得意なことを伸ばすことよりも労力が要る。仮に克服できたとしても、獲得できた能力はその道のベテランの方々と比べれば足元にも及ばないこともよくある…だから無駄な努力なんだし、自分の素質や才能を伸ばす努力をするほうが合理的だ…と意識高い系の方々はよく口にするものだが、あまりにも世間を知らずな意見だなぁと若輩者ではあるが私はそう感じる。

できないことを克服しても所詮ベテランの方々には及ばないのは事実だ。しかし「克服ができた」という確かな体験が自信になり、新たな活力源となる。また、克服に向けて努力する姿を見て「苦手なことでも投げ出さないガッツのある人」という評価を受ける。結果、良好な人間関係を築くことも可能であるという経験を見聞きしているし自分も経験しているからこそ、無駄な努力と決め付けるのは浅ましい考えだと感じている。

 

最後に

すぐに数字なり結果なりを出さないが、頑張った本人に良い影響をもたらすことが、苦手なことを克服する努力がもたらす地味ながらも見過ごせない効果である。小っ恥ずかしい表現になるが、苦手を克服すれば勇気が付く。この効果は見過ごせない。

こういう一見すると効果がわかりにくい努力を嘲笑する文化は、巡り巡って嘘やハッタリなどの人を騙し欺くような姿勢を招くと私は考えている。

昨今意識高い系&ビジネス系インフルエンサーに経歴詐称だとツッコミが入ったり、隠蔽体質だとか、錯覚商法だとか、情弱狩りなどの指摘が割と入るようになったのは、苦手を克服する行為を嘲笑する文化が行き着く先にある光景ではないか…と個人的に思っている。

…なんだかうまくまとまらなくて申し訳ないが、今回の記事はここでお開きにする。