(私個人の主観で恐縮だが)私がまだ学生だった頃(だいたい90年代~00年代)は「努力できることが才能」という論よりもまだ「努力次第でどうにかなるから努力は大事」というような主張が強かった。
が、昨今では「努力できることそのものが才能」というような一種の諦めに近いような考えを支持する流れが強まっているように思う。
もちろん、努力が苦にならない人がいるのは事実だしそういう人は才能があるのだなぁとは思うが、かと言って「努力できることは才能」論を受け入れて、自分の堕落や不勉強を肯定するのは違和感がある…というのが率直な意見である。
今回はそんな「努力できることが才能」論の負の側面について語ろうと思う。
努力すれば改善することまで「努力の才能が無いからできない」で片付けられてしまう怖さ
「努力できることが才能」論の怖さは、多少の苦労は伴うが努力すれば改善できてしまうことですらも「(努力できる)才能が無いからできない」と片付けられてしまうことだ。
なお、ここでいう多少の苦労は伴うが努力すれば改善できることの例としては…
- 基本的な対人能力の獲得(例:挨拶をする、話す時に挙動不審にならない、不必要に敵をつくるような話し方をしない…など)
- 身だしなみを整えて話しやすい人になる。(例:表情筋を鍛える、清潔感を意識する…など)
- 仕事における「ほうれんそう」の徹底。
- 最低限の勉強や運動の習慣を身に付ける。
- 早寝、早起きの習慣を身に付ける。(=夜更かしをしない、自堕落な生活を改める)
というようなものである。
そういうごくごく当たり前のことを当たり前と言えば当たり前のことですらも「努力の才能が無いからできない」と感じて社会からドロップアウトしてしまうような事例が、人と直接合わない時間が増えた代わりにインターネットに接続する時間が増えてしまったここ最近で増えていないか…と危惧している。
「努力できることが才能」論が広まったおかげで心が傷つかなかったが進歩もなくなってしまう怖さ
「努力できることが才能」論は、ある種の救いや安心をもたらす論である。
その救いとは、「自分が努力できないのは単純に努力や覚悟、能力や精神力が足りないのではなく、そもそも先天的な部分で才能がないから努力できない。なので自分を責めたり劣等感や罪悪感を抱かなくてもいい」と自分で自分を納得させつつ自尊心を守るというものである。
自分を責めなくていいので心が傷つくこともないし、ストレスも減る(ような気がする)し、なんとなくだが気持ちが穏やかになり安心する…そういう効能が「努力できることが才能」論にはある。
しかし、その一方で気持ちが休まるだけで現実は何も変わっていないし自分は何も進歩しないまま世間に取り残されてしまうという怖さもあるのだ。
努力できることが才能だと思う人を指導する側はシンプルに苦労が増える
努力できることが才能だと思っている人を指導する場面は、双方ともシンプルにストレスが増えてしまう。
指導する側はそもそも一種の諦めや悟りに近い態度でいるために、指導しても効果が薄いor無いと判断してさらっと流すことができない限りは、諦めきった新人を育成し続けるという苦行に苦しむことになる。
指導される側は、そもそも努力を軽視する姿勢をしていることが災いして集団での居場所や人望を失い生きづらさが増える。
ただ、そもそもで言えば努力できることが才能だと思う人は仕事なら採用の時点で、進学なら受験の段階で不合格になるので、ちゃんとした集団に所属すらできないという怖さもあるとは思う。
最後に:「努力次第でどうにかなる」が主流の時に生まれて心底よかったと思う
努力できることが才能だと思う論に共感する人は、最近流行った「親ガチャ」のような、先天的な要因で努力できないことを肯定するようなパワーワードを好む傾向があると思う。
親ガチャ以外にも、HSP、ギリ健、ボーダー、発達障害のように、先天的な要因で努力できない肩書きやステータスで自分を飾る傾向もある。
この手のワードで自分を飾れば「そっか、○○なら仕方ないよね」という感じの態度を周囲が取るようになり、それ以上深くツッコミを入れたり、叱咤激励する人はいなくなる。
周囲には自分を否定もせず厳しい態度で接することもしない、穏やかで優しくて、自分の周りに善意で固められた道を用意してくれる人が残ることだろう。
が、そんな優しい人に囲まれるようになればなるほど、実は努力によって改善できたこと、そして改善できたことで広がる自分の可能性や獲得できたであろう金銭的・社会的恩恵を放棄することにもなる。
最後に、今は希望が持ちにくい世の中であるためにか、努力努力の厳しい根性論的な考え方よりも、なるべく心の負担を軽減させるような欺瞞も含んだ優しい言葉が歓迎される空気がある。
そんな空気を感じて私が思うのは「『努力次第でどうにかなるから努力は大事だ』という今よりも優しくない時代に生まれてよかった」ということである。